SHINTAI ZERO BASE UNYOHO
身体0ベース運用法とは?
〈身体〉について考えてみる。
まず、それについて考えている脳を包む頭部とその下につながる四肢と胴を含む塊をイメージする。
次に知識として理解している皮膚の内側に存在する骨格や筋肉、臓器を想像する。
そこから様々に動かしてみたり、細部を観察していくことからさらに理解を深めていこうとする。
そうしてやっと私の〈身体〉は多くの謎に満ちた「近くて遠い身体」であることがわかってくる。
現代の私たちが暮らす生活環境のほとんどの物は人間の身体に合わせてデザインされているため、負荷なく楽に日常動作を行うことができます。スマートフォンを見ながらでも歩き、階段を上り下りすることもできます。椅子に座るときも身体を投げ出せば難なく座れます。ボタンを押せば様々なことを機械がやってくれるし、道具も手を添えるだけで勝手に馴染んでくれます。このような環境では私の〈身体〉を意識して操作し観察する機会は少なくなってきます。その結果、近いはずの身体はどんどん遠い存在になってきているのではないかと思います。
私が関わる美術において行われる「描く」「彫る」「捻る」などの様々な技法においても〈身体〉は必ず関わってきます。しかし、美術教育の現場や作家個人の中で「コンセプト」や「技法」「素材」については考えることがあっても、身体運用について考えることは少ないと思います。そのため、多くの人が肩から手先の間だけで、道具を動かしてしまっているのです。そして、その範囲を超えたものについてはなんとか扱うか、機器による拡大技術などに頼ることが多くなってしまっています。
美術制作を始めて間もない頃、私はまずそこに疑問を持ち始めました。自分の身体を大きく超える線を描く時、どうしてもぎこちなくなってしまいます。江戸時代の絵師の描く、横幅10メートルを超える襖絵や屏風などに見られる伸びやかで長い線を見ると、明らかに現代人と同じような身体操作では描くことのできない線だとわかります。その線は絵師の身体の動きを想像させるほどのダイナミックで動きのあるものです。
当時の人々の身体について調べると「誰でも米一俵(60kg)を持ち上げることができた」とか、当時の武道に励む人は「最近は世の中便利になりすぎたから山籠りでもしないと鍛練にならない」などと言っていたそうです。また、昭和初期でも女性の運搬屋「女おんな丁ちょう持もち」は米俵を5つ、300kgを背負っていたという資料が残っています。 これらのことから、当時の絵師たちもその環境で暮らしていたおかげで自然と全身をしっかりと操作して絵を描くことができたのではないかと思います。では、当時に近づくためにはどのような方法で身体を変えていくべきでしょうか? それは筋力や瞬発力に頼るスポーツのようなものではなく、日常に近い運動の中で発見できる重心や全身の扱いなのではないかと私は考えました。
〈身体0ベース運用法〉は、染色作家として作品制作を向上させるために個人的に研究し、実践していた身体運用法を、多くの人に理解し、実践してもらえるようにそれらを形式化したものです。〈身体0ベース運用法〉とは、歩く・座るなど、日常生活の中で一般的に「安定」して行われる身体運動に「もの」を関わらせることによって「不安定」を作り出し、「不安定」を「安定」へと戻そうとする中に、人間が元来持つ運動機能を見出す試みです。これによって発見された〈身体〉は、武道・スポーツ・身体表現だけでなく、人間の活動全てにおいて応用できます。
身体との関係性が希薄になっている現代生活において新しいテクノロジーで失われた身体感覚を埋めるのではなく、人間が本来持っている力を発見していくことが〈身体0ベース運用法〉の目指すところとなっています。それは「医療」「スポーツ」「身体表現」などとは異なる〈身体〉の捉え方です。パフォーマンス、美術のような従来の表現分野に続き、道具学や農業など様々な分野と関わっていく中で、〈身体0ベース運用法〉を身体の新しい見方や考え方の一つの分野として確立できることと確信しています。
そして、より多くの方々が〈身体〉の重要性に気付き、それを通して物事を理解するようになることを期待しています。〈身体〉について知るたびに遠く感じるほど果てしない可能性を持っていることを発見しますが、それと同時に近い存在にもなっていきます。多くの人にとって〈身体0ベース運用法〉との出会いが、「近くて遠い身体」から「遠くて近い身体」になる機会となることを願っています。